酒と下戸(サンプル)
噫、お前さんを■■したい。
***
「……何だっけ、忘れたわそんなの」
「だよね。オレも聞いたはずなんだけど忘れちゃった」
「極月先生は極月先生だしなーあ……」
ぼんやり呟かれた幼なじみの言葉が、ぽとりと地面に落ちたのを確認するように少しだけ視線を落とす。
その男を、霜月がきちんと名前とセットで把握したのは、高校生活最後の一年、三年次の最初のホームルームだった。大方の予想を裏切って流れるような美しい字で黒板に記された名前は、それでもなぜかちっとも頭に馴染まず、呼びかけようとした口がぽろりとこぼしそうになった彼の屋号で違和感の正体を理解する。
狭い共同体の中で生活してきた人間にとって、「極月」は「極月」でしかあり得ないのだということ。
きっと睦月もそうなのだろう。狭くて古いコミュニティの中では、個人の名前よりも屋号の方が分かりやすい。まあ確かに、と頷いた睦月に、同じように頷いて見せた。
「楽だもんな」
「楽だわー」
「だって、極月先生は極月さんちの人だもん」
「ね」
「外の人にあんまり、身内の話しないし」
「言うとしても代名詞じゃない?」
「……睦月姉、代名詞とかわかるんだね」
「おい元ヤンなめてんじゃねえぞコラ」
だからといって学校でその呼び名を使うわけにも行かず、仕方なしに「担任」と呼びつけた初日、「先生とか呼べんのか」と吐き捨てられた記憶は、思い出せるわりにやけに遠い。
特異な文化だろう、とは思う───が、コミュニティの中ではそれで成立しているので、外に対してそこを改めて歩み寄る必要性を感じられないのだ。
「つか、いきなりどうしたの、霜ちゃん? 極月先生と個人的なつきあいでもあるの?」
「そういう葉月姉みたいなこというのやめてくれない」
「えっ」
「ぜんぜん関係ない文脈でときめくのもやめろ」
「ええー」
霜月の記憶の中にいる極月は不定型で、四十路手前の教師然とした姿をとったかと思えば、いきなり社会人なりたてという風情の青さの残る顔を歪めていたりした。クラス担任として、あるいは唐突に始まった青年会の企画のおかげで日常的に顔を合わせるようになって発覚したその揺れは、おそらく彼が過去霜月にも見えるところで神無月といがみ合っていたからなのだろう。母親なんかからは幼い頃に面倒を見てもらったのだと言われたが、霜月自身にその記憶はほとんどない。
ないのだが、極月は当然しっかりと覚えているわけで、その延長で時折妙に子供扱いされることはあった。そのたびに脳の底の方をざわつかせる「何か」は霜月の感情を揺らすのに、正体が分からないせいでうまく処理することができない。
「睦月姉は、葉月姉が好きなんだよね」
「うん」
「わー、ためらいねえー」
「だって、睦月が先輩を好きなことは誰にも迷惑かけてないもん」
胸を張って宣言するその瞳があまりにも力強くて、「好きってなに?」と根本的な問いを投げようとしていた喉がぺたりと硬直した。
「……霜ちゃん?」
「───や、なんでもない」
「何でもないって顔じゃないけど」
「もー、察しだけはいいんだから……」
冗談めかしてため息をついたら、急に怖い笑顔を浮かべた睦月にぐいぐいと襟首を掴みあげられる。布地が首の皮とこすれてぎりぎりと痛む。
小柄なわりに力強い腕をタップしながらも笑ってしまったのは、実力行使も含む睦月とのやりとりが、昔から繰り返してきたじゃれ合いの延長だとわかっているからだ。
「だけはってなんだ、だけはって。コラ」
「わー元ヤン怖い痛い痛い」
「うっせージャリガキ。言いたくないならいいけど聞いてほしいならさっさと言いなさい」
弾丸のような一途さで年上の同性を好きだと言い放てる睦月の潔さがまぶしいと、そう一瞬でも思ってしまった自分が悔しい。解放された首周りを直しながら、霜月はそっと唇をなめた。