春告げ鳥に囁く(サンプル)
あなたを守りたいと、そう誓わせてください:21
暦商店街でも評判の洋菓子店のパティシエ、如月について、睦月はあまり語る言葉を持っていない。接点がないのだ。彼女の弟である皐月は、出歩く睦月を見つけると何かにつけては絡んできて、正直鬱陶しいことこの上なかったのだが。
だから、留学から帰ってきたという如月が旅館を訪れたときもこれと言った感慨を抱くことが出来なかった。ただ、ああこのお客さん見たことあるな、それくらいで。母親が如月と話しているのを聞いて、彼女とその弟のことやなんかを思い出したくらいなのだから、あとは推して測るべしというところだろう。
けれど客として部屋を取っているとなると日常会話もそれなりに交わすようになる。睦月はそうして少しずつ「如月」という人間を知っていった。
愛のために優しくするのではなく、優しくしたいから愛という名前をつけました:23
「…弥生?」
「えへへ、来ちゃった」
裏口をでると、相変わらずの穏やかな微笑みを浮かべた弥生が立っていた。いつも通りの着物姿で、裏路地に設置された室外機の上に軽く腰掛けている。服が汚れるわよ、と言ったら、そんなの洗えばいいんだよ、と笑われた。
笑い混じりに嘆息して、如月はのんびりと弥生の前に回る。向かい合った対面の壁に寄りかかろうとしたら、腰に回った腕に緩く引き寄せられる。下から如月の顔を覗きこんだ弥生は、その目元にそっと指を伸ばして顔をしかめた。
「くま、できてるよ。如月ちゃん、また無理してる?」
「この程度無理の内に入らないわよ。あなたが心配するほどのことじゃないわ、弥生」
「心配させてよ、ね」
言いながら弥生は如月の腰に回した腕を強く引いた。彼女がとっさにバランスを崩したのを支えるそぶりで誘導して、すとんと膝の上に座らせてしまう。鼻先が触れ合いそうな至近距離で目を見交わして、耐えきれなくなった如月が視線をさまよわせたところで弥生はにこりと微笑んだ。
にこやかに笑いあって別れるよりも、不機嫌なままでもそばにいたい:24
はじまりは二人でぼんやりと眺めていたニュース、だったと思う。新人らしいアナウンサーがたどたどしく伝えたのは熟年離婚が増えているというニュースで、ぱっと切り替わった画面は初老の女性を映していた。
―――では、後悔や遺恨はないんですか?
『ないですね。ずいぶん前から可能性として考えていたことではありましたし、十分すぎるほど話し合った結果ですから』
―――もう、ご主人に気持ちはなかったと?
『好きか嫌いかで言えば、まだ好きですよ。だけどそれが憎しみに変わる瞬間が増えてきてて、このまま本当に嫌いになってしまう前に』
―――別れたかった?
『はい』
女性は晴れやかな顔をして頷く。その後慰謝料だの手続きだのと生々しいトピックスに話題が移ったところで、「こういうのもあるのね」と呟いた如月の声を聞いて卯月は横に座る彼女へ視線を向けた。
べたべたと肌が触れあうような近さでもなければ、よそよそしさを感じるほどの遠さでもない。そのくらいの距離でソファに並んで座り、くだらないニュースやバラエティを眺めてはコーヒーだの紅茶だのをすするというのは如月が卯月の家を訪れたときの習慣だった。
大切なものを、間違えずに大切だといえるように:25
自分はずっと、あの背中を見て育ったのだ。かすかな記憶へ埋没するように、皐月は布団にくるまって夢へと落下していった。
―――ねーちゃん、ねーちゃん! 待ってよ!
叫びながら追いかけているのは、記憶の中にあるずいぶんと幼い頃の如月の背中だ。その横に連れだってはしゃいでいるのは文月だろう。どこかへ遊びに行くという姉たちの会話を小耳に挟んでついていこうと追いかけた皐月だったが、姉たちは後ろの皐月のことなんてお構いなしにどんどん歩いていってしまった。
それでもと追いすがろうとしたら足がもつれて、受け身をとることもできずにべしゃっと転んでしまう。地面に伏せたままとうとう泣き出してしまった皐月の横に、後ろから遅れてやってきたらしい長月がしゃがみ込んで苦笑した。
「置いていかれちゃったのかな? ひどいお姉さんだねえ」
「…っ」
揶揄するような、非難するようなかすかな響きを聞き取って、皐月はぐっと一瞬だけ息を飲む。かっと目の前が赤くなって、息を吐く勢いに乗せて言葉を放り出した。
「ひどくない! ねーちゃんを悪く言うなっ!」
あなたへの愛をしっている:26
「如月さんにプレゼント?」
問いかけておきながら自分を放置したまま目の前で眼鏡を物色している三人に向かって、「水無月眼鏡店の眼鏡が一番似合うほう(自称)」は素っ頓狂な声を上げた。人付き合いがさほど得意ではない自分には、たとえ顔見知りだとしても一人きりで三人もの相手をするのはひどく緊張する。何もみーちゃんがおらんタイミングで来なくたって、というのは三人が来店してすぐ水無月が心の中で叫んだ言葉だ。一心同体の姉は今、野暮用とかで「すぐ戻るから」とだけ言いおいてどこかへ出かけてしまっている。
不安のあまり泣き出しそうな水無月に気づいているのかいないのか、そうだよん、と一番近くにいた皐月が顔を上げる。
「ねーちゃん、最近よく暗いとこで本読んだりしてるからさー、目ぇ悪いんじゃねーかと思って」
「如月ちゃん、僕たちが止めないと頑張りすぎちゃうからねえ」
「せめてこれ以上目が悪くならないようにって、あたしたちからプレゼントしようかなって!」
根拠の薄い皐月の発言に、ひとまず物色は止めたらしい弥生と未だ品定めを止めない葉月がやたらと軽いトーンで続ける。皐月は言った端から目的を見失ったらしく、視力検査用のトライアルフレームを手にとってなにやら騒いでいた。
いつだって、あなたを二番目にあいしている:27
昔から容貌と物腰のせいでいまいち正しく「女」として扱ってもらえなかった文月をきちんと理解して、その小さな体でめいっぱい優しくしてくれる少年。聞かれたら首を傾げられそうなほどには年も離れているし、今は彼の方が文月よりもずっと小さいけれど、それでも誰より頼れるし甘えることが出来ると思っている。
幼い頃からずっとそばにいた如月と文月は、往々にして幼稚な人間からその間柄を揶揄されることもあった。確かに文月が如月のことをそうして愛したことがなかったと言えば嘘になるが、それも所詮過去の話だ。
悲しい話だが、一番に心を砕く相手というのは常に同一で一定であるとは限らない。文月も如月も、周囲の人間の涙を見るにつけそれを痛いほどに理解していた。愛と名を付けた瞬間から、感情はいつかやってくる終わりに向けて転がり始める。
だから、二人はお互いに対して抱いていた気持ちに名前をつけることを、一番に心を砕くことを止めた。
確かにみつめているのに、思いに縫い付けられてうごけない:28
「葉月、霜月に告白されたんですって?」
「え!? え、なんで? なんで如月さんが!?」
「……どうにも勘違いしているらしいあんたに困りきった霜月が弥生に相談して、自分じゃどうしようもないって困りきった弥生が私に相談してきたのよ。本人に言わないまま適当なことを言うのもフェアじゃないし…、事情くらいなら聞くわよ?」
「えっ、いや、そんな大した事情はないって言うか……」
そうなのかしら? と如月が首を傾げる。
「弥生の話だと、霜月は相当考え込んでいたみたいだけれど。そもそもの前提からして誤解されてる、とかなんとか…」
「前提? うーん、あたし何も変なことは言ってないんだけど…」
本当に、葉月は心からそう思っていた。霜月に対して自分が下した判断が間違っていたとは思っていないし、だとすれば自分が返すべき言葉はあれ以外ないだろう。そんな葉月を横目に見ながら、如月は何かを考えているようだった。
大丈夫、背中越しにみているから:29
弥生を介した「友達の友達」程度の関係だと思われがちな二人が、それぞれお互いのことを一番に考える、いわゆる恋人と言われるような関係になったのがいつからなのか、実際のところ長月はあまり覚えていない。常に自分のペースで行動することが一番大事な如月と積極的に手を伸ばさずに必要なときに必要な分だけ触れる長月、それぞれの優先順位がうまく噛み合った結果なのだろうと言ったのは文月だ。弥生は気付いているのかもしれないが、長月が直接言われたことはない。
「そういえば、新しいコーヒー豆とかは?」
ショーウインドウを覗いていたはずの如月にそう問いかけられて、長月は一瞬言葉を見失った。それまで頭の中に渦巻いていたくだらない思考は四散して、すぐに一秒前何を考えていたのかすらわからなくなる。
如月から投げかけられた言葉をもう一度反芻して、いらないかなと一言だけ返して長月はゆっくりと瞬きした。
てのひらがあんまりあたたかいので、手放す時期を見失ってしまった:210
風呂からあがって如月がいるであろう台所の方へ向かうと、食卓になぜか極月が座っていた。その横には流しで使った調理器具を片づけているらしい如月がいて、平然と極月に向かってお茶は、なんて聞いている。
「…何してるんです? 極月、わざわざ上がり込んであなた…もしかして…」
「気色の悪い反応してんじゃねえ。お前の姉に用があったんだ」
「あの人ならいませんよ。さっさと帰ったらいいじゃないですか〜」
そうしようと思ったんだけどな。極月が湯呑みを片手に言った。髪から伝って落ちてくる、拭き損ねた水滴が気持ち悪いなと思う。
極月が何を言おうとしているのか神無月にはわかっていた。表情を見て次の言葉が予測できるくらいには長くつきあってきているが、おそらく相入れることは一生ないだろう。自分と彼が仲良く肩を並べて談笑している姿なんて想像しただけでも鳥肌ものだ。きっと極月もそうだろう。
「如月、なんだってこんなのに構うんだ? 時間の無駄だぞ」
如月は答えない。その沈黙が肯定なのか拒絶なのか、それがわかるほど神無月は如月と時間を共有できていない。ちり、と首の後ろで火種の爆ぜるような音がする。
きっと見た目より強くない、と気付いたのはいつだろう:211
「何言ってるの、高校生なんてまだ子供よ」
「…………………!」
そう言ってカウンター越しに頭まで撫でられ、反論しようとして開いた口は声にならない怒りで潰されてしまった。ぶるぶると震えるばかりの霜月を見て満足したのか何なのか、それ以上言及することはせずに注文を聞いてくる如月に大人の余裕みたいなものを見せつけられた気分になって霜月はまた唇を噛んだ。そんなもの被害妄想でしかないことは彼自身もよくわかっている。
結局商売上手な如月の口車に乗せられて頼まれていない分まで買ってきてしまった帰り道、霜月はどうやったら彼女に勝つことが出来るのだろうかと考えながら歩いていた。従兄である神無月より歳は近いはずなのに、どうやっても勝てる気がしないのはなぜだろう。皐月が「ねーちゃんには勝てないお」と言っていた意味がなんとなくわかるような気がした。如月(を筆頭とするあの世代)は常に越えられない絶対者の立ち位置で霜月たちを俯瞰している。けれど壁が高ければ高い分だけ闘志を燃やすのが人間という生き物で、霜月も如月に対してよくわからない対抗心を抱いていた。
会えるとうれしい、そんなに単純なことなのに:212
「出張?」
「というよりは、研修ね。そう遠いところじゃないけれど、四日間くらいいないから」
言いながらパスタを口に運ぶ如月は平然としたものだった。山の中の研修施設にこもりきりになるから電波は通じない、だの、帰りは電車で帰ってくるから、だのと事務的に連絡事項だけを投げかけてくる如月に拍子抜けして、何かを言おうと口を開いた極月だったが、結局言葉は霧散して食べかけのドリアを咀嚼してごまかしてしまう。
「そうか。帰ってきたら連絡しろよ、迎えに行くから」
「はいはい、わかりました、極月先生」
「ハイは一回」
「ハイハイ」
昼休みの時間を合わせたりお互いの仕事が終わる時間にあわせて飲みに行ったりとほとんど毎日顔を合わせていた二人だったが、何日か会えない日が続くというのは今回が初めてではなかった。今までにも同じようなことはあったし大丈夫だろうと笑ってみせた極月に如月も同じように笑って、翌日あっさりと旅立っていった。