りぼん(サンプル)

 いつだって、卯月は弥生が一番だった。何か嬉しいことや誇らしいことが起きたときにまず報告するのは弥生だったし、弥生のためならなんでもできるとすら思っていた。だが弥生はそうではないのだと気づいたのはいつの頃だったろう。確かに弥生は卯月を愛していたが、それが卯月と正しく同等であるかといわれたら、その答えはきっと否だ。如月や文月に揶揄されるようになるころには、卯月はその事実を言われるまでもなく理解していた。
 卯月にとって、如月という女性はいつだって保護者のような立ち位置だった。すべてを見透かしたような静かな瞳と態度に苛立ったことも少なくない。皐月や葉月に振り回される自分を、文月や弥生と一緒に仕方ないわねと眺めている不愉快な女。たまにそのポジションを動いたかと思えば、悪質な冗談でトラウマを植えつけていく。如月に対するそんな認識を書き換えたのは、留学から帰ってきてすぐ皐月の失踪を聞いた彼女の顔を見たときだった。
 信じていた神に裏切られた、守ってきた何かを壊してしまった、そんな一言で表現しづらい諸々を強烈な怒りでくるんで苛立ちに漬けこんだような。ああこんな顔もするのか、と、それまでひどく温度の落ちたあきれ顔や薄っぺらな笑顔ばかり見てきた卯月は思った。もっともっと幼かったころには他の様々な表情も見たことがあるはずなのに、彼はいつの間にかそれらを忘れてしまっていたのだろう。
 留学から帰ってきた如月は、卯月が記憶していたよりもずっとわかりやすく表情を変えるようになった。生まれ育った街を離れて経験を積んだ如月が丸くなったのか、ある程度成長した卯月がその変化に気付けるようになったのか、どちらが正解なのかは定かでない。あるいは、両方かもしれない。
「…やっぱり置き物系がいいのかしら。卯月、何か聞いてる?」
「………いや、聞いてない」
「じゃあ…、適当に選んじゃいましょうか」
 ふらふらと陳列棚を行き来する如月の視線を追って同じように辺り一帯をぼんやりと眺めながら、卯月は珍しく生産性のない思考に沈んでいた自分を自覚した。
 薄手の白いコートを羽織って整然と並べられた棚の間をのんびりと歩き回る如月を見やる。女性の平均よりも少し高い背中はぴんと伸ばされていて、たまに下の方の棚を覗きこむ時だけわずかに歪んで肩甲骨のラインが浮き出ていた。首を傾けた拍子にゆるくバレッタで留めただけの髪の毛が揺れる。
 ぷつりと途切れてしまった会話の接ぎ穂を持て余して、卯月はすぐ脇に並ぶ小物達に目を向けた。  季節感の薄い縮緬細工が雑多にディスプレイされた店内で如月の白い背中がゆったりとした速度で動いている。携帯電話で唐突に呼び出されたかと思えば弥生への誕生日プレゼントの買い物に付き合わされて、もう一時間が経とうとしていた。
 ふと目に留まった和柄のストラップを指先で拾いあげて、卯月は強いて視線を落とした。なるべく如月の姿を、反応を視界に入れないようにして口を開く。まるで彼女の反応を恐れるようなそぶりだったが、卯月はその理由がわからなかったし、そもそも気付くこともなかった。
「…その、弥生とはうまくやっているのか」
「………まるで、父親か何かみたいな口ぶりね」
 冷めた声だった。前触れなく、降るような冷たさが滲む声で如月が笑う。何か如月の思いを逆撫でするようなことを言ったのだろうか。ひやりと漂ってきた冷気に、心当たりもない卯月は思わずむっと黙り込んだ。
 卯月だって、聞きたくて聞いたわけではない。如月と弥生の親しげな様子は随分前から知っていたし、二人が「そういう」関係であるならば卯月はその状況をきちんと把握しておく必要があると思ったのだ。人の恋愛事情など知りたくもなかったが、大切な兄が関わっている以上、きっといつかは卯月もその余波をかぶる時が来る。余計なお世話と詰られるかもしれない覚悟を持ってしぶしぶ口にした言葉だったのに、何が悲しくて怒りすら含んだトーンで笑われなければいけないのか。
 もやもやと胸のうちで蓄積される苛立ちを扱いかねて彼はやや乱暴な動きで手の中でもてあそんでいたストラップを棚に付き返した。普段、兄である弥生が自分以外と楽しげに笑いあっている場面を目にした時よりももっと釈然としない気分なのは、きっと如月と二人で買い物をしているというこの状況に慣れないせいだ、と卯月は自分に言い聞かせた。
「…と言うか、」
 顔をしかめたままの卯月よりももっと腹立たしげな声で呟いた如月の声に、俯けていた視線をゆらりと上げる。
「私と弥生はつきあってなんかいないわよ」
「…?」
「好きは好きだし、きっと愛してもいるけれど……、それは世間一般に言われる恋人としてではなくて、家族みたいなものに近いわね」
 首を傾げた卯月の気配を背中越しに察したのか、いくらか和らいだ気配で如月が言った。こちらを振り向かないままの彼女からは卯月の様子など窺えないはずなのに、彼が疑問をあらわにしたのを正確に理解する。どこで身に付けてきたのか知らないが、如月は昔からそうやって自分の死角で起きている物事を把握するのがうまかった。彼女の弟である皐月も見習えばいいと何度も葉月と言いあった覚えがある。
 いったいどうやって如月が周囲を捉えているのかを考えていたせいで、卯月はつい彼女の言葉を聞き逃した。反応がなかったのを聞いていなかったのだときちんと理解したらしい如月は、コートの裾をひらりと翻して振り向く。
「安心しなさい、と言ったのよ。…弥生には、あなたのお兄さんには、私なんかよりも素敵な相手が現れるわ」
 穏やかな暖かさが滲む声に、訳もなく苛立った。如月と話しているといつもそうだ。卯月が怒鳴り出すぎりぎりのところを撫でて離れていくような距離感は、彼がずっと感じていたものだった。
 これでいいわね。如月が言う。几帳面に手入れされた掌の上で、縮緬細工のうさぎがころんと揺れた。