そのくちびるに封をする
「…悪かったわ。ごめんなさい」
静かに、諦めがにじんだ調子の声を聞いて、卯月はとっさに滑り出る言葉を抑えることができなかった。
「そう言うところが」
吐いた声はひどく暗い。いらだちとも違う、彼にしては珍しい湿っぽい口調に、如月は床に落としていた視線をゆっくりと上げる。
卯月の黒々とした瞳と、如月の深い紫色をしたそれが交差した。
目の前の恋人がなぜ不満をこぼすのか、如月はおおむね正確に理解しているのだろう。喧嘩やすれ違いで二人の間に諍いが起こったとき、最初に折れて謝罪するのはいつも如月の方だ。単純に面倒を嫌った怠惰なだけだと如月が自分を戒めていることは当然知らず、卯月はそれが年上の余裕を見せつけられているようで気に食わないのだ。
「…そう言うところが、いやなんだ」
「……くだらないことで言い争うなら、私が折れた方が早いと思っているだけ、」
「わかってる。オレだってそう思っている」
ゆっくりと言い聞かせるような如月の言葉を途中で断ち切って卯月は呻いた。
二人が言い争うことは少なくない。確かに、せっかく恋人と一緒にいるのだから、眉間にしわを寄せたまま会話をするよりは少しでも早く喧嘩を終わらせて笑いあう方がずっといい。その理屈は当然卯月にもわかる。だから毎回如月に反発するたび非を見つけて謝ってしまおうと思うのに、言い慣れない言葉がぐずぐずと喉の手前に張り付いているうちに如月はさらりと謝罪の言葉を口にするものだから、結局卯月は先を越された悔しさと、なにか悲しみに近いものを澱のように抱えて黙りこむ羽目になる。
短く如月を遮ったあとどうにもならないもどかしさを持て余して黙り込んだ卯月を見て、彼女は唐突に唇の端を嫣然と持ち上げた。
「……卯月、キスしましょう」
「なんで」
「私がしたいから」
そう、如月は言って柔らかく微笑んだ。駄々をこねる卯月に焦れた様子もなく、仕方ないなあと子供にするように諦めを浮かべる様子もない。
彼女はそれほど情熱的な方ではないはずだが、何故か卯月に対してある一定の間隔でくちづけをねだる。喧嘩の後であるとか何か嫌なことがあったとか、そういうわかりやすいタイミングなのかと最初は思ったが、そんな卯月の推測を鼻で笑うように何でもない時でも如月は彼の唇を欲しがった。
あんたとのキスが好きなのよ、と、卯月がくちづけの理由を尋ねた何度目かの時に彼女は言った。
────卯月、こんなにわかりやすく不器用なのに、女の私がびっくりするくらい柔らかい唇で、鳴きたくなるくらいに幸せなキスをするんだもの。
抽象的すぎてよくわからなかった卯月は、とりあえず泣きたいのなら泣けばいいだろうとか適当なことを言ってまた馬鹿ねと浅く笑われた。
キスが好きだと、きっとそうやって笑う如月の文法に則って言うならば、卯月は彼女との他愛ない会話すべてが好きなのだろう。弟や古くからの友人とするよりも弾まないし、不機嫌なまま続けることも多いが、春先に降る雨のような静けさで戻ってくる彼女の声が卯月はとても好きだった。
声だけではない。多分如月が考えている以上に、卯月は如月を好いている。そうでなければ、こんなにたくさん不愉快な思いも理不尽な思いもしながらなお傍にいることを選ぶだなんて考えられない。
結局、卯月がどれだけ彼女に対して不満を募らせ、同じように如月が彼に対して不満を募らせてもだからと言ってお互いを手放してしまうことなんて思いつきもしないほどに二人は二人でいることが当たり前になっている。
要はそう言うことなんだろうな、と卯月は自分でもよくわからないままに結論を出した。
「嫌なら嫌って言わないと…、大丈夫よ? 今日はちゃんとリップも塗っているから」
不満げに言ったのは、数日前のことを思い出したからだろう。からりと晴れた夕方、いつものような唐突さで卯月に口付けた如月だったが、リップも塗らないまま乾燥した空気にさらされた唇は案の定がさがさで、触れ合わせた拍子に小さく裂けてしまった。じわっと広がった血の味に二人で顔をしかめた記憶はまだ新しい。
「卯月」
「─────」
卯月の沈黙を勝手に許可ととったのか、柔らかく唇が重なった。
言葉通り手入れを欠かさない唇からは、何か薬品のようなものの気配がした。
110110